Story

ストーリー

コシュカのホームページを訪れてくださり、ありがとうございます。
お店の雰囲気から、なんとなく「山中は猫が好きな人なのかな?🐈️」と感じた方もいるかもしれません。

実はその猫との出会いが、僕にとってとても大きな出来事でした。

ここでは、その出来事から開業にいたるまでの流れを、少しだけお話できればと思います。

① 猫との最初の出会い

僕が中学生の時、母が突然、猫を拾って帰ってきた。
茶トラの子猫だった。
といっても、両手にすっぽり収まるほどではなく、生後3ヶ月ぐらいだったのかな。そこそこ育ったサイズ感だった。

この頃の僕は特別猫が好きだったわけでもなく、そもそも触ったこともなかったし、 母が猫に興味がある人だなんてそのときまで知らなかった。

「トイレとか買ってくるから」と母は出かけてしまい、僕は突然、その子とふたりきりに。
その子はとても人懐こくて、あぐらをかいていた僕の膝の上に、ためらいもなく乗ってきた。
くすぐったいような、不思議な感覚だった。

「ちょ、ちょっと待ってね」と言いながら、そっと持ち上げようとしたけれど、力の加減がわからなくてちょっと怖かったので、そーっと押し出すようにして一度下りてもらった。座布団を持ってきて膝に置き、その上に乗ってもらったら、くすぐったさもなくこれで大丈夫。と思ったら、すぐにくるっと丸くなって落ち着いてしまった。それからしばらくのあいだ、僕は身動きが取れなかった。

それが、その後20年以上一緒に暮らすことになる「チャビ」♂との出会いだった。

② 二匹目の猫との出会い

しばらくして、今度はキジ白の子猫(生後1ヶ月くらいだったと思う)を、母がまた拾ってきた。めっちゃ拾ってくるじゃん……と思いつつ、これがまたとてもかわいかった。

この子、「ガク」♂はかなりのビビりで、幸い家族にはすぐ慣れてくれたけれど、知らない人が家に来ると、いつもどこかに隠れてしまっていた。

チャビが面倒のいい子だったのは、とても助かった。

ガクはとにかく食いしん坊で、ごはんを並べてあげると、チャビの分まで食べてから自分の分を食べるという強欲っぷりだった。チャビは怒るでもなく、されるがまま。最初にそれを見たときは、びっくりと面白さで、つい横取りの一部始終を見守ってしまった。

さすがにその後は、離れた場所で食べさせるようにして、しっかり見張ることにした。外で飢えていたから最初のうちは仕方ないかとも思ったけれど、結局、最後までこの食い意地は変わらなかった笑。

ガクとも、その後17年ほど一緒に過ごした。

中学・高校時代は、2匹の猫と一緒に、わりと楽しく過ごしていた。けれど、大学生のときに、大きな転機が訪れる。

③ 病に見舞われ

猫を飼い始めた頃、ちょうど格闘技ブームの真っ只中だった。K-1やPRIDEが人気で、僕もよくテレビで観ていた。

その熱は長く続き、中高とほぼ帰宅部だった僕が、大学では日本拳法部という格闘技の部活に思い切って入るほどだった。

練習は厳しかったけれど、毎日が新鮮で、ほんとうに夢中になっていた。

そんな大学1年の夏、静岡での合宿中に重度の熱中症で意識を失い、救急車で運ばれることになった。

何度も何度も呼びかけられ、身体をパチパチと叩かれながら目を覚ますと、病院の処置室だった。名前を訊ねられたりしているうちにだんだん意識がはっきりしてきたけれど、急に寒さを感じた。身体にこもった熱を下げるために、全身を冷やされていたからだった。

その後の検査で「横紋筋融解症」と診断され、入院することになった。──簡単に言うと、筋肉が壊れて血液中に流れ出し、それが毛細血管を詰まらせて腎臓に負担をかける病気だ。

もう少し目を覚まさないようならICUに入れるつもりで、一部屋空けていたらしい。そんな状態だったので、両親も愛知から呼び出され、急いで駆けつけてくれた。

とはいえ、本人たちは「とにかくすぐ来てくださいって言われたけど、遠いしすぐは無理じゃん」というテンションだった。まあ、そりゃそうだ。

処置後は安静にしながら、点滴や検査を続けて、少しずつ回復していった。

その後、10日ほどで退院できることになった。
若かったから回復は早かったけれど、「一歩間違えると人工透析だった」とあとから聞かされ、あらためて「結構やばかったんだな」と思った。

両親に、「近くで美味しいハンバーグのお店見つけたから行かない?」と言われ、退院直後に食べた「さわやか」のハンバーグがめっちゃ美味しかった。

④ 回復に向けて

熱中症からの横紋筋融解症は回復したものの、しばらくしてから、今度はひどい目眩に襲われるようになった。
起き上がれない、立ち上がれない、という日が続き、吐き気もひどく、長時間トイレに籠ることも多かった。
外に出るなんてとても無理で、メンタル的にも追い詰められていった。
両親には申し訳なかったけれど、大学は後に中退することにした。

働くこともできず、家で過ごす日々のなかで、猫たちの存在にずいぶん救われた。一人で籠っていたら、もっと深く沈んでいたと思う。

何件か病院にも行ってみたが、原因はわからず、これといった対処もなかった。
あるとき頭のMRIを撮りに行った病院で、担当の先生に
「目眩はストレスからくることが多いけど、仕事は何してるの?」
と聞かれ、
「今は仕事してないです」
と答えると、
「じゃあストレスはないねー」
と、小馬鹿にするような調子で言われたのは、今でも忘れられない。

いや、まともに働けないのもストレスなんだけどな。

なんとかしなきゃという気持ちで調べていくうちに、横浜に目眩の専門家がいることを知る。そこでは患者が泊まり込みでトレーニングを受けることで回復を目指すという。

通うのは難しかったが、その先生が一人でも実践できるようにと出していた本を見つけ、それを頼りに少しずつ取り組み始めた。

身体のバランスを司る小脳を鍛えるというトレーニングを続けるうちに、目眩は少しずつ落ち着いていった。

⑤ 新たな生活のスタート

ある程度体調が安定してきた頃、スーパーでバイトを始めた。塩干売り場という、干物や塩鮭などを扱う担当だった。

地元密着型の、小さな店だった。同じ売り場のパートの方々や、隣の鮮魚売り場の人たちにもよくしてもらって、人に恵まれていたと思う。

バックヤードの作業より、店内での対応が多かった。商品棚の場所を聞かれたり、小さい文字を読んでと頼まれたり。年配のお客さんが多い店だったので、ちょっとしたことでも誰かの役に立てる感じがあって、そういうやりとりが楽しかった

店長がそんな様子を見ていてくれて、ある日「これからも売り場に出て、お客さんとの会話を大切にしてほしい」と声をかけられた。

社員にならないか、と言われたこともあったけれど、まだ体調の波もあって、今の仕事量で手一杯だった。そうしているうちに、そのスーパーは閉店することになった。

ちょうどその頃、実家で猫を飼い続けるのが難しくなった事情もあって、猫を連れて実家を出ることにした。部屋探しと仕事探しを同時に始める。

猫のためなら頑張れる、と思った。

地道に目眩のリハビリは続けていたし、格闘技好きの延長で、古武術の身体の使い方なんかも興味があって、少しずつ取り入れていた。そうやって身体のことを自分なりに試していくうちに、少しずつ体調が安定していった。

それと一緒に、知識や経験を活かしたいという気持ちも、少し湧いてきた。

新しい部屋にも猫たちはすぐ慣れてくれた。お隣さんも猫を飼っていて、僕とは比べものにならないくらいの猫愛を持つ人だった。いい人と、いい猫たちに囲まれて、助けられた。

最初は「やれそうな仕事」を探していたけれど、やっぱり「本当に興味のある仕事」をやろうと思った。

ここで、整体の世界に足を踏み入れることになる。

⑥ 整体業界へ

最初に勤めたのは、筋肉の“ほぐし”を中心にした、リラクゼーション寄りの整体だった。店舗と整体スクールを運営している会社で、まずは研修所に通って、解剖学と施術技術を学び、テストに合格してから現場に出るという仕組みだった。

身体のことはもともと独学でいろいろ調べていたから、解剖学のテストはすんなり通過できた。でも、施術の実技テストはなかなか合格できず、最初は本当に苦戦した。

いざ人の身体に触れるとなると、想像以上に怖さがあった。勝手がわからず戸惑って、ふと、初めて猫を抱き上げようとしたときの感覚を思い出した。

最初に配属された店舗では、ベテランの女性スタッフが店長をしていて、施術だけでなく接客の面でもたくさんのことを学ばせてもらった。僕が現場に出た月に先輩が一人辞め、翌月にももう一人辞めるというハードな時期だったけれど、良いお客さまに恵まれて、最初の現場がこの店でよかったと今でも思っている。

応援で他店舗に行くことも多く、場所が変われば身体も接客も変わる。そこでまた、いろんな先輩に教わり、学び、試し、時には反面教師にもしながら、経験を積んでいった。

現場に出れば出るほど、迷いや疑問は増える。でもそのたびに、研修所の講師に相談できる環境があって、新しい考え方や技術に触れられたのはありがたかった。

最初はまったく余裕がなかったけれど、少しずつ「この人には、このアプローチが合うかもしれない」と考えられるようになってきた。どこから触れて、どうゆるめていくか。そんなことを、毎回の施術の中で考えるのが、楽しくもあり、難しくもあり。

ここで、僕の施術の土台のひとつになる『筋肉のほぐし』というベースが形になっていった。

⑦ 苦悩と学び、そして一歩ずつ

社内のスキルアップセミナーにも積極的に参加し、施術の幅を少しずつ広げていった。できることが増えると、その分だけ悩みも増える。「どうすれば、この人の身体がもっと良い状態になるか」。そんな思いで試行錯誤を重ねる中で、自分の中に積み上がってきたものが、ようやく手応えとして感じられるようになっていった。

指名のお客さまも増え、社外の学びにも目を向けるようになった。
いろいろな技術や考え方に触れるなかで、施術に対する見方も少しずつ変わっていった。
「痛いところをどうにかする」のではなく、
「全体のつながりの中で、その人の身体にどんなことが起きているのか」
を探ろうとする視点。
そういった感覚が自分の中で大きくなっていくのを感じていた。

それと同時に、「何かが足りない」というのも感じていた。どこかスカスカしたような感覚。
それは、整体において基本となる全身の関節(骨)を扱えていなかったから。

そんなときに、『頭蓋骨を含めた全身の関節の調整』を深く丁寧に探求している今の師匠と出会った。初めて、「この人に会いたい」と直感的に思い、すぐに学びに行った。

その人の下で基礎の基礎から関節の調整を学び、背骨や骨盤など大きな関節だけでなく、頭や手先足先の細かな関節までひとつひとつの関節を調整することの大切さ、難しさ、奥深さを知った。学びを元に自分なりに考えながら施術をしていくことでだんだんと手に馴染み、自分のものになり、それまで積み上げてきたものと自然に結びつき、自分の施術の新たな軸ができていった。

その結果として、実際に、今まで変化が出にくかった方にも、少しずつ良い変化が出るようになっていった。

でもそれと同時に以前から感じていた、自分の施術観やスタイルと当時の職場の方針とのズレが、より大きくなっていった。

合わせることはできていたけれど、それもだんだんしんどくなってきていた。

このときはまだ自分で店を持つことまで考えられなかったけれど、ちょっともうここでは働けないな、と思い新しい職場へと移ることを選んだ。

新しい職場では、施術方法はそれぞれのやり方に任されていたけれど、働いていくうちにお客さんが求めていることとの“ズレ”の大きさを想像以上に感じた。
施術に集中しきれない空間や環境に対しても、モヤモヤするものがあった。

自分は、どんな場所で、どんなふうに人と向き合いたいのか——
施術のことだけでなく、そうした環境や関わり方へのモヤモヤを抱えていたこともはっきりと自覚した。

その中で、自分で環境を整えていくことも明確に考えるようになっていったけれど、すぐに動き出せたわけではなかった。

⑧ 整体サロン『KoShuKa』オープン

終の棲家になった部屋で2匹はゆっくり歳を重ねながら穏やかに過ごしてくれた。
先にいったのはガク。その数年後にチャビも。

どん底のときを救ってくれた彼ら。最期まで見届けることができて、本当によかった。

そのあと、すぐに新しいことをという気持ちにはなれなかったけれど、少しずつ気持ちが高まっていき、40歳になる節目の年に整体サロンKoShuKa(コシュカ)をオープン。

色々な人に出会い、支えられて、いまはこうして整体という形で誰かの身体に関わる仕事をしています。
派手なことはできないけれど、目の前の身体と日々向き合い続けています。

整体サロン KoShuKa
山中 健太